「僕には国籍がなかった」87歳の報道カメラマン・瀬戸正夫さんに聞く波乱万丈なメシの話 – メシ通

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タイ生まれ、無国籍。激動のタイを記録してきた

報道カメラマンとして、第2次世界大戦後、激動のタイを記録してきた瀬戸正夫さん(87歳)。波乱万丈の人生のなかで、瀬戸さんの思い出に残っている食事について聞く機会をいただきました。


瀬戸正夫さんプロフィール

1931年、南部プーケットで日本人の父とタイ人の母との間に生まれ、終戦後、両親と離れ離れとなり、日本人抑留キャンプで収容生活を送る。その後、日本国籍を失い、タイ国籍を取得するまで約20年、無国籍だった一方、職を転々とするなど、歴史に翻弄(ほんろう)された半生を送ってきた。朝日新聞バンコク支局(現アジア総局)で助手兼カメラマンとなり、タイを中心に激動の東南アジアを取材。また、日本のNGOの活動なども手伝いながら、少数民族やスラムの子どもたちなども撮り続けている。


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▲瀬戸さんと愛車の三菱ランサー ©️瀬戸正夫


──お生まれはプーケットですよね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:プーケットには、3歳までしかいなかったので、その頃の記憶はほとんどない。バナナの揚げ油に突っ込んで、お尻をやけどして、虫が湧いた記憶しかない。虫下しで、ミミズくらいの長さの虫が108匹出て助かった。その後、3歳から5歳までバンコクにいて、それから8歳までは南部のソンクラーで育ちました。その頃は、南タイ語しか話せなくて、日本語はあまりできなかった。


──当時はどんなものを食べていましたか? タイ料理ですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:お寿司とかはよく食べた覚えがあります。ちらし寿司。両親は日本人なのか、タイ人なのか、ややこしいんですが、義理の母がからゆきさん(中国や東南アジアへ季節労働していた女性)で、田島テルというのですが、その人がいろいろ料理を作ってくれました。


──魚をよく食べたんですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:僕は「魚の目玉」が好きでした。おいしいんですよ。煮魚が出ると一番先に食べてました。あと朝は、オートミールに甘いコンデンスミルクをかけて毎朝食べていましたね。


──おしゃれですね!


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:8歳でバンコク日本人小学校(国民学校)に入学しました。2年遅れて入った。昭和14年(1939年)4月です。


──その頃の食事はどんなものでしたか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:朝は義母が作ってくれたおかゆとか、おじやを食べた。弁当は卵焼きとか、冷蔵庫がなかったから腐らないものを持って行っていました。米は自分で七輪に火をおこして炊いていたけれど、おかずは義理の母が作ってくれました。


日本に帰ってしまった父からの送金はなかった

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▲医者に見放されて僧の助けを借りて水を浴びる男性 ©️瀬戸正夫


──学校に入った2年後、昭和16年(1941年)12月8日に太平洋戦争が始まりました。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:昭和20年(1945年)4月頃は、タバコ巻きのアルバイトをしていました。100本で1バーツもらえたんです。当時バミー(タイラーメン)1杯が30〜40サタン(100サタン=1バーツ)でした。義母と僕を置いて日本に帰ってしまった父からは、送金はありませんでした。


──戦後は、浅丘ルリ子さんもいたというバンブアトーン(バンコクの北隣ノンタブリー県)の収容所に入っていたそうですね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:そうです。収容所から出た後は、住んでいたスリウォンから、勤め先の歯科クリニックがあるヤワラー(中華街)まで(約4キロ)を、お金がなくてバスに乗れなかったから、歩いて行った。昼は水道の水を飲んでいました。月150バーツの給料は全部義母に取られてしまった。収容所に入った時から、朝は何も食べなくなった。なぜか食べる気がしなくなったんです。


──今でも朝食は食べないのですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:現在も午前中はコーヒー1杯だけ。昼は麺類を軽く。夜は豚肉、鶏肉、野菜。小皿で食べます。ご飯は食べない。土日はチャーハンか麺類のルーティンです。今、食事は華僑系タイ人の奥さんが作ってくれます。あと、ドリアンは好きで、一度に2〜3個食べますよ。


──ドリアン3個も! 南国らしい果物ですが、匂いが強くて日本人は苦手な人も多いですよね。私も嫌いではないですが、ほんの少しで十分満足感があるので、そんなにたくさんは食べられません(笑)。瀬戸さんは、87歳の今も本当にお元気ですね!


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:17歳の頃から1日20キロ走っていて、今も10キロ走っている。水泳は時々2000メートル泳きます。14歳の頃は、少年兵の訓練を受けていたから、遠泳や50メートルの潜水もできた。背嚢(はいのう)に石を20キロほど詰めて早く走る練習があったんです。初めは体力をつける練習だとばかり思っていたら、実はそれは戦車に体当たりする特訓だったんです。銃剣術も習いました。それが当時の日本の軍国主義です。水はほとんど飲まない。山を1日歩いて飲まなくても平気。今も体力あるのは、その時のおかげかもしれない。僕は今もジョギングをしているから歩けるが、友人にはもう歩けなくなった人もいるね。


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▲ポルポト派の女性兵士たち ©️瀬戸正夫


──すごいですね! 私は今でも10キロ走ったり、2000メートル泳ぐなんて無理です……。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:前は朝5時に走っていたけど、今は暑い午後1時くらいに2時間走っている。小股でゆっくり、歩くくらいの速さで2時間かけて10キロを走るんです。健康は大事ですよ。定年になった友人から、「車の運転はやめろ」って言われますが、俺の勝手です。


──今もカメラをお持ちですが、いつも持ち歩いているんですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:カメラは常に持ち歩いています。今も4台使っていて、レンズは20本くらいあります。全部ニコン。60年使っています。今はデジタルだけど、フィルム時代は10台くらい持っていました。でも、古いカメラは故障しても、部品がなくなって修理できないんですよ。


プーカオトーンの石段の上から飛び降りて、自殺をしようと思った

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──写真を始められたきっかけは、なんですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:17歳の頃、プラパデーン(バンコクの隣サムットプラカーン県)というモン族の住む村に行ったら、お寺があって、塔があって、木があって、水が流れてて、人が歩いている。景色がきれいだったので、ふと写真が撮りたいなって気持ちになった。それがスタートです。その頃、僕は貧乏でお金がなかったから、友達のカメラ借りて撮っていた。レンズの性能とか、絞りとスピードがどうとか、全然知らなかったから、なんでもはっきり写ればいいと思っていた。写真屋さんに行って現像の仕方とか聞いたんだけど、誰も教えてくれないんですよ。みんなケチで、自分の仕事を取られると思って(笑)。現像は1000枚くらい失敗した。初めは女性ばかり撮っていました。次に景色。そして、人生や人の生きる姿を撮りたいと思うようになったんです。


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▲ドレスアップした男性同性愛者のふたり ©️瀬戸正夫


──それから、すぐ朝日新聞の仕事を始められたのですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:いいえ。貿易会社の社員、日本料理レストランのスタッフ、タピオカ工場の通訳、日本語の家庭教師……ナイトクラブのボーイ、波止場で担ぎ屋さんをやったこともある。でも、大変だと思ったことはない。1バーツでも稼ぎたかったから。水泳も教えていたよ。1人教えたら、2杯の麺が食べられるんだ。当時、プールはなかったので、池で教えていた。のちに取材現場で戦車に遭遇して、打たれるかと思った瞬間、中から顔を出した兵士が水泳の教え子で、運よく命拾いしたなんてこともあったね。


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▲クロントイ港から見たバンコク ©️瀬戸正夫


──それは、すごいお話ですね……。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:その後、住友商事に勤めたんですが、同僚は日本に研修に行くのに、僕には国籍がなかったから行くことができなかった。日本の国家から日本国籍を破棄されたんです。それがつらくて自殺しようと思ったんです。


──そこで思いとどまったのはなぜですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:プーカオトーン(バンコクのワット・サケット内にある黄金の山)の石段の上に登って、そこから飛び降りようとしたんですが、ふと下を見下ろすと、景色がとてもきれいだったんです。流れる雲や鳥の鳴き声、自然の美しさに助けられました。


──自然から生きる気力をもらったんですね。その後、実のお母さんと再会されるのですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:29歳の時、実母の存在がわかったんです。「サンセーリー」という新聞に広告を出したところ、親戚から手紙がきて判明しました。早くプーケットに会いに行きたかったけれど、その時は住友商事に勤めていたために、すぐには行けなかったんです。


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▲タイの伝統舞踊 ©️瀬戸正夫


──複雑な生い立ちで苦労もされて、つらい思いをたくさんされてきているのに、人を恨んだり、悪い道に進んだりすることはなかったのですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:“ツバメ”(※)にならないかと誘われたことはあるけれど、麻薬とか人身売買とか、法律を犯すことはしていないですね。「間違ったことをするな」という武士道精神が染みついているのだと思う。学校の先生も良かった。武士は弱いものいじめしないとか、助けてあげなきゃいけないとか、そういうことを学校で習っているので、それを僕は守ってる。学校の教育、先生がよかったんじゃないかと思います。先生と別れるときに言われた「いい友達を作りなさい」という言葉をちゃんと頭に入れています。

(※)年上の女性の愛人である若い男性のこと


生きるために苦労している姿を取材して、報告しないといけない

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▲ステープ元首相と支援者たち ©️瀬戸正夫


──それから、1963年にタイ国籍を取得され、住友商事を辞めて、バンコクカレッジ(現・バンコク大学)の日本語講師を経て、1967年に朝日新聞のバンコク支局で助手兼カメラマンとなられたと。以降は、タイはもちろん東南アジアのあらゆる地域へ取材に行かれていますね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:世の中に困っている人は多い。生きるために苦労している姿を取材して、真実を調べて、報告しないといけないという気持ちがあります。現場に行けば、すぐ答えが得られるから、すぐ現場へ記者を連れて行く。行って、見なきゃわからないんです。


──愛車の三菱ランサーの走行距離は50万キロを超えているとか。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:運がいいことに一度も故障したことがない。ぶつけられたことや落っこったことはあるけど、体は無傷でした。とことんまでやるんです。最高は170キロで走っていました。締め切りに合わせるためにはすっ飛ばす。道が悪いとか関係ない。早く行こうと思えばできるんですよ。バンコクからチェンマイまで約700キロですが、5時間半で行ったこともある。崖から落ちたこともあるし、警察の車を追い越して、逃げ切ったことだってありますよ(笑)。


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▲事故を起こした愛車ランサー ©️瀬戸正夫


──瀬戸さんの書かれた本には、取材以外にも、たくさんの地方を旅している様子が描かれていますね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:子どもの頃、8歳からひとりぼっちだったから、バンコク中の路地を歩き回っていた。バンコクに来て両親と一緒に住むと思っていたのが、ホテルに預けられたんです。義理の母はばくち好きで、帰ってくるのが遅かったし、お小遣いも食べるものもなかったから、我慢するしかなかった。そんな時、車で行けないような路地を歩いていました。


──なぜ、そんなにいろんなところへ行きたいと思うのですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:そこになにがあるのか、興味がある。見たい、知りたいという気持ち。地方へ行くと、みんな貧しい農村。山岳民族には身分証明書がない人も多い。自分が国籍を取るのが大変だったから、よくわかります。


ひもじい思いをしているから、食べるものはなんでもいい

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▲少数民族・カレン族の女の子 ©️瀬戸正夫


──日本でも大きく報じられましたが、北部チェンライ県のタムルアン洞窟から救助されたサッカー少年やコーチにもいたように、今でもタイでは無国籍の人は少なくないんですよね。瀬戸さんが、タイのパスポートを取って、初めて日本を訪れたときの印象はどんなものでしたか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:1969年6月にパスポートが取れて、初めての日本の印象は、梅雨の時期だったので、傘がきれいだということ。タイはスコールが多いので、みんな雨宿りして当時は傘をほとんどささなかったからです。日本ではちょうどプール開きがあったので泳いだし、自転車で鎌倉へ行ったりもした。あと、東京の朝日新聞の人にお寿司を食べに連れて行ってもらいましたよ。貧乏だったから、自分のカメラは質屋さんに入れて、朝日の人から借りたカメラで写真を撮っていました(笑)。


──タイの地方で印象に残っている食べ物はありますか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:カエルは焼いたり煮たり、ラープ(ハーブあえ)にしたり、どれもおいしい。赤蟻(アカアリ)の卵はスープにしたり、卵焼きにしたり。イエー(トカゲ)はスルメみたいですね。ワニやヘビも食べたし、コブラの血もおいしかったです。


──うわー、本当にいわゆるゲテモノの類をかなり食べていらっしゃいますが、平気なんですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:抵抗はないね。田舎へ行くと沼の水を飲まされることもあるけど、お腹を壊したことなんてない。食いしん坊だから、なんでも食べてます。最近は胃が悪くなるので食べないけど、昔は唐辛子(プリッキーヌー)をガリガリかじっていたよ。出されたものは基本的になんでも食べる主義ですね。若い時、食べたくても食べられない時代があった。ひもじい思いをしているから、食べるものはなんでもいいんです。


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▲カレン族の親子 ©️瀬戸正夫


──たくましいですね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:タイ国籍を取った時、父は中国人として記載されたので、今は中国系タイ人として生きています。運命に沿って歩かなきゃ。逆らっちゃいけないんです。笑顔を作って、くよくよしない。雨の中でずぶ濡れになっても、気持ちの持ち方ひとつ。なんでも体を慣らしちゃえばいい。


──どうしたら、そんなに強い心を持つことができるのでしょうか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:僕は慈愛、思いやりを一番大事にしている。どんな人に出会ってもばかにしない。尊敬の念を持つこと。人には親切にすべき。茶化すのはいけない。自分はやっぱり苦労したから、困った人を助けたい。


──瀬戸さんと同じような思いを他の人にもさせたくないという気持ちなんですね。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:自分は小学校しか行っていない。学校に行けなかったから、うちの女房の兄弟2人と自分の子ども2人を大学まで行かせました。一番大事なのは学問、教育です。漢字はペンフレンドに手紙を出して覚えました。写真の撮り方も映画から学んだし、英語も映画のシナリオを取り寄せて勉強した。僕の先生は、映画や自然だったんです。


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▲僧への托鉢(たくはつ)©️瀬戸正夫


──なんでも独学で身につけていらっしゃっているのですね。なかなかまねできるものではありません。


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:いかにして生きるかは自分で考えないと。僕はお金がない時、資本なしでできる商売は何かを考えて、高床式の家の下にできた水たまりに浮いてるボウフラを集めてヤワラーで売っていました。ボウフラは魚の餌になるから売れるんです。網がないから布とハリガネを拾ってきて、自分で作って。ボウフラはバケツに入れて、大きな葉っぱをふたにして、こぼれないように歩いて運びました。


──自分の頭を使って工夫することが大事なんですね。瀬戸さんが、今も写真を取り続けるのはどうしてですか?


f:id:Meshi2_IB:20180911141620p:plain瀬戸さん:朝日で51年、日本人会は60年、記録として写真を撮影してきました。将来の人のために残してあげたい。ジャーナリストとして、真実そのままをみんなに知らせる義務、責任があると思っているんです。


──私も取材をして人に伝える仕事をしているひとりとして、その言葉は強く響きます。瀬戸さんの言葉が、多くの人に届きますように。


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本当にパワフルで“超人”的な印象の瀬戸さんですが、その写真には優しい人柄がにじみ出ています。

限られた時間で長い人生のすべてを聞き尽くすことはできなかったのですが、少しでも瀬戸さんのお話を直接うかがうことができたことは、自分を見つめ直すよい機会になりました。



書いた人:西野風代

西野風代

ライター&編集者&夜遊び探検家。東京生まれ。週刊誌記者、女性誌編集を経て、タイに移住。雑誌やウェブのライター、フリーペーパー編集長、コーディネーターとして活動後、現在は東京を拠点に、旅やカルチャーなどの記事を執筆。

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