木道をリサイクルした東京電力の「尾瀬ノート」、誕生の物語 – 電気新聞

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東日本大震災後も関係者が木道ペーパーを守り続け、昨秋、販売開始

電気新聞 長岡 誠





2018年4月6日

 福島、新潟、群馬の3県にまたがり、美しい景観で知られる尾瀬国立公園。その一部を保有し、自然保護活動に取り組んできた東京電力ホールディングス(HD)が昨年11月末に「尾瀬ノート」を作成して外販を始めた。尾瀬と周辺地域の魅力や同社との関わりを知ってもらうのが狙い。ノートには尾瀬の木道をリサイクルした紙が使われている。尾瀬ノート誕生の舞台裏には東日本大震災後の厳しい状況下で、特別な紙を守り続けてきた関係者の物語があった。

木道を再利用した「尾瀬ノート」(左が日本語版、右は英語版)
木道を再利用した「尾瀬ノート」(左が日本語版、右は英語版)

 毎年多くのハイカーが訪れる尾瀬の湿原。貴重な植物が踏み荒らされないよう、全域に木道を整備している。東電は自然保護活動の一環として、風雪にさらされて痛んだ木道の取り換えを1960年代から続けてきた。東電HD子会社が今も毎年交換作業を行っている。
 廃棄される古い木道を紙の素材に使えないか――。2000年代初頭、東電環境部に所属していた白井真・環境管理グループマネージャー(当時)の発案がきっかけで、木道ペーパーという異例の試みが動きだした。
 どうすれば実現できるのか。手探り状態の中、同部に所属していた政木隆史氏(現東電HDソーシャル・コミュニケーション室プロジェクトグループマネージャー)らはまず、紙の調達などで接点があった流通会社の市瀬(東京都千代田区)を訪ねた。
 「直感的に面白いと思った。何より担当者の熱い思いが伝わってきた」。社長の市瀬泰一郎氏は最初に相談を受けた際の印象をこう話す。
 だが木道から紙をつくるなど聞いたことがない。市瀬社長が次に話を持ち込んだ中越パルプ工業の皆吉和彦氏(現執行役員)は「最初は無理だと思った」と振り返る。一般論として、そもそも朽ち果てた木材は紙の材料として使えないからだ。
 とはいえ状態を確かめようと04年夏に現地を訪ねると、一筋の光明が見えてきた。空気にさらされる表面の腐食は深かったものの、それ以外の部分が思った以上に良好。紙の材料として「使えそうだという話になった」(皆吉氏)からだ。
 
◇震災で状況一変
 
 使用済みの木道からできるパルプは、同社が扱う紙の材料全体に比べるとほんのわずかだ。採算性のみで判断するなら魅力は乏しいが、皆吉氏は「尾瀬を守る大きな目的に協力したいという思いで挑戦を決めた」と語る。少ない材料を別管理し、生産ラインに載せる手法について協議を重ねて05年に生産を始めた。
 木道ペーパーは東電のCSR報告書などに使われ、最盛期の生産量は年約600トンに達した。だが11年3月11日の東日本大震災で状況が一変。経営難に陥った東電からの発注が途絶えたからだ。
 最大の発注者から注文がなくなったのだから、通常なら生産中止に追い込まれてもおかしくない。実際、震災後に行われた市瀬の社内会議では扱いが毎回議題になったという。それでも同社が取り扱いをやめることはなかった。
 なぜか。市瀬社長に理由を聞くと「一言で語るのは難しい」と前置きした上で「確かに事故の影響は大きかったが、尾瀬の自然には何の責任もない。価値ある取り組みは後世まで維持すべきだと考えた」と話す。
 中越パルプ工業もラインを守った。皆吉氏は「東電がどうあろうと我々から手のひらを返すことは一切考えていなかった」と強調。生産量は極端に落ち込んだものの、木道ペーパーを見捨てずに復活の時を待った。
 
◇情報発信を再開
 
 関係者の思いが実を結んだのは昨年のことだ。東電HDが尾瀬の情報発信を再開すると決め、尾瀬ノートの構想が浮上した。PR活動を担当することになった政木氏は再び、市瀬の門をたたいた。
 震災の影響による生産中止も覚悟していたと話す政木氏。それだけに「(木道ペーパーを)守り続けて頂いたことには感謝の気持ちしかない」。すぐに発注再開を決めた。
 今年度は尾瀬ノート3万部の発行に合わせて約5トンの木道ペーパーを生産した。「政木さんが訪ねて来た時、『ついにこのときが来たか』と思った」(市瀬社長)。今後ノートの販売部数が伸びれば紙の需要拡大も期待できる。関係者が思いをつなぎ、尾瀬の息吹を伝える貴重な試みが、再び始まった。
電気新聞2018年2月27日





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