ビデオゲームの語り部たち 第4部:石村繁一氏が語るナムコの歴史と創業者・中村雅哉氏の魅力 – ニコニコニュース

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 バンダイナムコエンターテインメントの前身であるナムコは,故中村雅哉氏が1955年に中村製作所として立ち上げた会社だ。1977年に社名を変更してナムコとなったのだが,その独特の名前は,中村製作所の英語表記である Nakamura Manufacturing Companyからとったものだ。

 来るべきデジタル時代を予見させる心地良い響き,日本がエンタテインメントというコンセプトと技術を持って世界に打って出ようという心意気を感じる。

 しかし中村氏は最初から大きな成功を収めたわけではない。中古で購入した2台の電動木馬を塗装し直して百貨店の屋上に設置し,1回5円で楽しんでもらうことが中村製作所創業期の商売だった。さらには金魚すくいまで手がけていたようで,台風の影響で金魚鉢が壊れ,金魚が死んでしまったことが帳簿にも記録されている。

 「木馬からモノレールまで」というナムコ黎明期の企業スローガンは,挑戦の連続を表している。そしてこれが,ビデオゲームでの世界的な成功につながっているのだろう。

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」で登場いただく石村繁一氏は,1976年にナムコに入社し,2005年に代表取締役社長を務めた。いわば中村氏とともにナムコの歴史を見届けてきた人物だ。そんな石村氏の視点で,ビデオゲーム史の一端を語ってもらった。

■“丙種産業”の矜持

 「ナムコは,基本的にもの作りに特化した会社,クリエイティブに集中できる会社でした。のちにバンダイさんと経営統合したときには,それを改めて感じましたね。ただ,それはどっちがいいとか,悪いとかの話じゃないんです」

 そう語り始めた石村氏は,中村氏が自分たちの仕事について語る姿が印象に残っているという。

 「アタリジャパン買収とゲームセンター開設の資金を調達するにあたって,銀行へお金を借りに行ったときに,『あなたがたの産業は,丙種産業だ』と言われたそうなんです。甲と乙の下にある丙ですから,極端に言えば“なくても成り立つ産業”といった意味合いだったのでしょう。そんな所に金を貸すかと。銀行から見たら,輪投げとか射的をやってるような会社というイメージだったんじゃないですか」

 ナムコによるアタリジャパン買収は1974年。「スペースインベーダー」すら誕生していない時代のことだ。今となってみれば銀行側の態度はあり得ない話だが,当時「これからはゲームです」と言ってもなかなか理解を得にくかったことは容易に想像できる。当時の銀行としては“丙種産業”がしごく真っ当な判断だったのだろう。
 だが中村氏は,そんな声にはひるまなかったという。

 「『第一次産業が農業,第二次産業が工業,第三次産業はサービス業だが,これからの時代はサービス業がどんどん大きくなる。そのサービス業のなかで,教育的,知的サービスを第四次産業,ゲームセンターなどの楽しい体験,面白い映画や歌を合わせた情緒に訴えるようなものを第五次産業としようじゃないか』『海外の学者が,一次より二次,二次より三次産業ほど高付加価値なんだと言っている。だから,我々のやっている事は大変高付加価値で,過去の製造業やサービス業の上にあるのだ』と言っていたのを良く覚えています」

■電子回路の写真が石村氏の運命を変えた

 石村氏は同志社大学の出身だ。入学した頃は「同志社の電子工学科を出れば,それなりの家電メーカーに行ける」などと言われていたようだが,1973年の第一次オイルショックを経て,就職活動の時期には日本企業全体が疲弊しているような状況だった。

 そんな中でも関西の会社から内定をもらったが,大学の単位不足の懸念もあって,翌年も就職活動を続けることを考え始めたという。しかし,たまたま手にしたリクルートブックにあった中村製作所の求人広告を見たことで,石村氏の運命は大きく変わった。
 その広告にあったアタリのゲーム機の電子回路写真に魅力を感じ,中村製作所の採用試験に応募したのだ。

 「筆記試験と面接のために2回東京へ行きました。内定が出たと同時に,大学の方も卒業の見込みが立ったので,じゃあ,中村製作所へ行くか,みたいな気持ちでしたね(笑)。大田区の矢口渡(やぐちのわたし)の工場に寮があると聞いていたので,身一つで行けばなんとかなるとも思いました。
 上京後に工場に行ったら,その横に建設現場でよく見かけたる瓦葺きで木造のバラックみたいな建物があったんですけど,それが寮だったんです。もう,押入れの隙間から,外が見えるぐらいのものでしたね(笑)」

 ちなみにその寮はまかない付きで,10人程度が住み込んでいたという。石川祝男氏(現バンダイナムコホールディングス代表取締役会長),橘 正裕氏(元ナムコ代表取締役)ら,そうそうたるメンバーがその寮の出身だ。

■スペースインベーダー発表前からアーケードゲームを開発

 石村氏が入社した頃,中村製作所の本社事務所は銀座にあった。

 「中村社長は神田の鉄砲店の生まれでしたが,『一流会社は,銀座に事務所がないといけない」という考えがあったようです。とはいえ,その事務所で木馬のメンテナンスや色塗りまではできないので,奥様の実家の車庫を工場代わりにしたそうです。1955年創業ですからね。私が入った1976年というと,もう起業から20年経っていましたし,すでに規模はそれなりに大きくて,社員番号は191番でした」

 中村製作所が本格的にアーケードゲームへ乗り出したのは,電動木馬などの遊具の流行が終息しつつある一方で,エレメカと呼ばれる電気仕掛けのゲームジャンルが勃興しつつある時期だった。東京タワーに設置するエレメカのドライブゲームのコンペで,競合相手だった関西精機製作所に負けてしまったことがきっかけになったという。

 関西精機製作所が開発から製造,その後の運営まで行うとした一方で,中村製作所にはそういった実績がなかったことが決め手になったようだ。今となっては確認のしようもないが,発注側からすれば,開発から運営まで一貫してできるところと組みたいという気持ちはよく分かる。

 この結果を受けて,中村氏はオリジナルの商品を企画する開発部門を新たに設けた。だが,当時はある会社がヒット商品を出すと,他社がそれを真似た“コピー商品”を出すことがザラにあったので,割がいいやり方ではなかったと思われる。あえてオリジナルにこだわったのは,中村社長の気概だったのだろう。

 入社した石村氏は,その開発部に配属となった。

 「私が入社するほんの1か月前までは,製造部開発課と呼ばれていたようです。エレメカの『F1』というゲームが開発中で,そのスコア表示部分の設計を任されました。大学の卒論で『マイクロコンピューターを使った電子回路の用途』について書いたので,知識はあったんです。しばらくして『シュータウェイ』というクレイ射撃をモチーフにしたゲームの制御系も手がけました」

 石村氏が任された仕事は,もう1つあった。

 「中村製作所がアタリジャパンを買収した関係で,アタリ製マシンのメンテナンスも担当していました。結構壊れたんですよ。そのおかげもあって『あいつは電子回路に強い奴だ』と認めてもらったと思います」

 だが,エレメカの仕事に従事しつつも,石村氏はその先を見ていた。

 「これからはビデオゲームの時代が来ると思って,入社2年目くらいには,ビデオゲームについてのレポートを書いたり,こういう開発機材を買ってくださいという申請書を書いたりしていました」

 石村氏の読み通り,1978年に「スペースインベーダー」がタイトーからリリースされ,日本初となるビデオゲームブームが到来。それに対抗するナムコオリジナルのタイトルとしてリリースされたのが,ピンボールとブロック崩しを合わせたような「ジービー」だった。後に『パックマン』を生む岩谷 徹氏がナムコで手がけた初めてのタイトルで,ハードとプログラムに石村氏が関わっている。

 「ジービーはナムコのビデオゲーム第1号として,スペースインベーダーが出る前から開発を始めていましたが,リリースがあのブームとバッティングしちゃいました。8月のアミューズメントマシンショーに出展したときは,まだスペースインベーダーはそこまで盛り上がっていなかったんですが」

 ジービーは1万台近くを売り上げたというから,当時としてはかなりのものなのだが,数字ほどの存在感を出せなかったのには,理由があった。

 「ゲームセンターや喫茶店への販売というのは場所借りのようなもので,こちらが機械一式持っていって『電気代の負担だけお願いします』ということで置かせてもらい,売り上げをメーカーと店舗が分けていました。
 そうなると,店側としては1日1000円そこらしか稼げないものより1日1万円稼ぐ機械の方がいいわけです。ジービーを持って行くと『それはいらんからスペースインベーダー持ってきて!』と言われる(笑)。
 たくさん買ってはいただいたんですが,箱に入ったまま積み上げられて,部屋の間仕切り代わりになっていた……みたいな話も聞きました」

■黄金時代の到来

 「ジービー」に続いて石村氏が手がけたのは「ギャラクシアン」だ。

 「『ギャラクシアン』は,ポスト『スペースインベーダー』というコンセプトで,企画を澤野和則さん,ハードウェアを私で,ゲームプログラムの大半を田城幸一さんが担当しました」

 前述したように,当時オリジナルのアーケードゲームを作るうえで,コピー商品との戦いは避けられなかったのだが,石村氏はギャラクシアンで想定外の事態に遭遇した。

 「ロケテストの最中に基板が盗まれたのには驚きました」

 ある喫茶店に「ギャラクシアン」のテーブル筐体を試験的に設置したところ,筐体の中の基板がそっくりなくなっていたのだという。事件の真相は最後まで分からなかった。
 当時の電子回路は市場に流通している部品で作られていたため,同じ部品を集めて組み立てることが可能だった。結局,オリジナルの「ギャラクシアン」がリリースされる前に,そのコピー品が世の中に出回り始めてしまったという。

 「ギャラクシアン」を経て,1980年代に入ると「パックマン」のヒットにより,ナムコの開発力とブランド力は盤石なものとなる。黄金時代の到来だ。

 「『パックマン』は,ゴールデンウィークか何かで会社がしばらく休みだった時に,社長室へ試作版を持ち込んだ記憶があります。最終仕様の決定には社長判断が必要でしたから。
 中村社長に『(パックマンのプロトを)やってみてください』という感じでお願いしたと思います。社長は家より会社にいるほうが好きな方だったので,休み中ずっと会社に出て,プレイされていたようです。
 それで休み明けに『どうでしたか?』って聞いたら『面白くって腱鞘炎になっちゃったよ。どうしてくれるんだ,お前!』って笑ってました(笑)。喜んでくれましたね」

 石村氏は「パックマン」のハードウェアとプログラムの一部を担当した。企画は岩谷 徹氏,プログラムは舟木茂雄氏である。

 「『パックマン』の開発では,研究のために岩谷さんとゲームセンターに行ったことを覚えています。彼が『女の子がキャーキャー言うゲームを作りたい』というようなことを話していたんですよ。そのコンセプトから,追ったり追われたりといったゲーム性が生まれたんだと思います」

 「パックマン」の後,ナムコの収益とブランドをさらに押し上げたのが「ゼビウス」だ。

 ゼビウスの企画は遠藤雅伸氏,メカデザインは遠山茂樹氏が手がけた。開発中のプロジェクト名は「シャイアン」だったという。

 「『シャイアン』は,もともとヘリコプターで森の上を飛び,敵陣を攻撃していくゲームでした。最終的にヘリコプターではなくてソルバルウになったのは,“人の影を感じる”ものはやめよう,という方針からなんです。
 リアルなものにして,その森に隠れている敵兵,つまり人がいるのかな? などと思われるのが嫌だったんだと思います。それで,無機質なものにしていこうと」

 話が少し横道に逸れるが,人間をクルマでひき殺した数がスコアになる「Death Race」(Exidy,1976年リリース)というゲームが,アメリカで社会問題となったことがあった。
 石村氏の記憶によれば,中村製作所は「Death Race」をサンプルとして2台輸入してみたものの,やはりそのゲーム性には違和感があり,販売はしなかったという。

 そういった経緯を考えても,「シャイアン」が「ゼビウス」になるうえで加えられた改変には納得がいくだろう。

■初期のファミコンを支えたナムコのタイトル

 石村氏によると,「ゼビウス」くらいまで,ナムコは業界のなかでも良いポジションを維持していたというが,それ以降は徐々に他社も台頭してきたという。

 「そんな状況で1983年7月に,任天堂さんからファミリーコンピュータ(以下,ファミコン)が発売されたんですが,それ以前に手がけたMSXや『ぴゅう太』向けの移植がせいぜい数千本しか売れなかったので,ファミコンへの移植も様子見でした。
 そうこうしているうちにファミコンが勢いに乗ってきて,中村社長が『なぜ,うちではファミコン向けの移植をやらないんだ?』って言い出したんです,それで,確か1983年の年末から84年の年始あたりに,開発部員へ『ファミコンを解析するように』って指示しました」

 当時はまだサードパーティという概念すらなく,ハードウェアメーカーから情報をもらうという発想もなかったので,開発はハードウェアの解析から始まるものだったのだ。

 「3月末にはプログラム構造などが全部分かって,試作版のファミコン向け『ギャラクシアン』が完成しました。それを中村社長自らが任天堂に持っていって,山内 溥社長(当時)に交渉したと聞いています」

 任天堂以外のメーカーでは,ハドソンがファミコン向けのソフトを販売していたが,まだライセンス契約にも決まったものがなかったため,ナムコは任天堂に対し,ファミリーコンピュータという商標を使わせてもらう内容の5年間のロイヤリティ契約を締結した。

 ファミコンは発売年の1983年に約50万台を販売したが,翌1984年は,9月発売の「ギャラクシアン」,11月発売の「ゼビウス」のヒットで,200〜300万台まで跳ね上がったという。
 当の任天堂も,この数字には驚いた……というより,戸惑いに近いものを感じたようだ。

 「山内社長も販売状況を見て『これは何事だ』みたいな感じになったんだと思います。我々ナムコの社員が中村社長と同行して任天堂に行ったとき,『わけが分からないことが起こっている……。作れるということと,作っていいということは別だ』と,ちょっと訳が分からない論理を展開されましたね。ファミコンの開発を主導した上村雅之さんは喜んでくれた記憶があります」

 山内社長の反応は興味深い。基本的に任天堂は,発売間もないファミコン向けにさまざまなソフトをリリースしてくれる企業を歓迎していたと思われるが,それをビジネスとして成立させるシステムまでは考えていなかった,というところだろうか。コンシューマゲーム機ビジネスの黎明期らしいエピソードと言えるかもしれない。
 任天堂はこうした経験を踏まえてか,ファミコン発売から5年後にビジネスモデルを大きく変えている。サードパーティがロムカートリッジの製造を任天堂に委託するという形になったのも,このときからだという。

■いちはやく3Dグラフィックス技術に取り組む

 ファミコン向けソフトの開発がナムコの新たな柱になった一方で,石村氏はまたその先を考え始めていた。

 「世の中のレジャーが段々と多様化していく中で,従来の電子アニメ的なゲームを作っていてもしょうがないと思うようになりました。そこで,会社の開発方針を3Dグラフィックスによるコンテンツに移行しようということで,1982年にリリースしたレースゲーム『ポールポジション』の発展系となるものに着手したんです」

 そのレースゲームは1988年に『ウイニングラン』としてリリースされるが,開発は難航したようだ。

 「新しい技術ですから,なかなかうまくいかないまま,時間ばかりが過ぎていきました。
 営業サイドから『今すぐレースゲームが欲しい』という要望が届いていましたので,2Dグラフィクスの『ファイナルラップ』を1987年にリリースしたんです。本当は『ウイニングラン』のほうが先に出るはずだったんですが……結局,2年ぐらい遅れての完成になりました」

 石村氏が語ったように,ナムコはいち早く3Dグラフィックスに取り組んだが,ビデオゲームとして成立させるには,まだ技術的なハードルがあった。ウイニングランをリリースした1988年に,コンピュータグラフィックスを専門に開発するJCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィックス・ラボ)と提携したほか,SIGGRAPHなどの学会へ参加するなどして,研究を深めていく。

 開発体制や組織も大きく転換するタイミングが来ていた。ファミコンを中心にしたコンシューマ機向けとアーケード向けで開発部を分けることになったのだ。その後石村氏はソフト開発の立場から一度離れ,ハードウェアの開発に移ることになった。

■幻のナムコ製コンシューマゲーム機計画から生まれた「SYSTEM11」

 「何年ぶりに聞いたことか(笑)」

 私が「SYSTEM11」という名称を口にすると,優しい石村氏の顔がさらに綻んだ。SYSTEM11は,石村氏が手がけたナムコのアーケードゲーム基板だ。初代PlayStationと共通のパーツを使用し,3Dグラフィックスを扱える小型で安価なゲーム用基板として「鉄拳」などに採用された。

 SYSTEM11の開発には,少々複雑な経緯がある。

 「時期についてのはっきりとした記憶はないんですが,ナムコの上層部で自社開発コンシューマゲーム機の計画があったんです。何年もの間現れては消えるを繰り返して,結局実現しなかった“幻”のゲーム機ですね。『ナムコ・コンシューマー1』とか『NC1』といった開発プロジェクト名で呼ばれていたものです。
 その動きの中で,役員のひとりが『ソニーの人を知っているから,ちょっと見に来てもらおう』ということになりました」

 そこでやってきたのが,後に「PlayStationの生みの親」と呼ばれる久夛良木健氏だった。

 「開発中のハードを見た久夛良木さんに『何やってるんですか? ナムコさんといえばハードじゃなくて,3Dグラフィックスゲームでしょう』と言われまして(苦笑)。『私たちはゲーム用ハードウェアの計画を水面下で進めています。しかるべき時が来たら,内容をお話します』と言って帰っていきました。
 それから半年か1年後くらいに初代PlayStationの情報が開示されて,ナムコは自社でやるのではなく,これに乗ろうということになったんです」

 ちなみに,こういったやりとりの中で,石村氏は当初ソニーが開発していたスーパーファミコン用CD-ROMドライブ(これも名称はプレイステーションだった)も見せてもらったという。

 石村氏によれば,ナムコがソニーと接近した理由には,任天堂との関係が変わったこともあるという。ファミコン初期からソフトをリリースしていたナムコはロイヤリティ契約などで優遇されていたが,それに調整や見直しが入り,ナムコが不満を感じたということだ。

 こうして久夛良木氏(ソニーや当時のソニー・コンピュータエンタテインメント)とナムコの蜜月関係が始まり,その結果,ソニーとナムコの共同開発でPlayStationをベースとしたアーケードゲーム基板のSYSTEM11が完成したのだ。

 その名称は,すでにリリースされていた「SYSTEM22」の半分程度の性能だったことに由来する。これからも想像できるように,SYSTEM11は“廉価版”として開発されたものだ。

 当時のアーケードゲームは,自動車メーカーの本田技研工業がF1への挑戦を「走る実験室」と称したのと同様に,最新技術が惜しみなくつぎ込まれる実験的な傾向があった。典型的な例が,操作に合わせてシートや筐体が動く,セガの大型体感ゲームだ。

 とはいえ,当然ながらゲームセンターでは「1プレイ●円」のオペレーションが基本にあり,基板や筐体は回収できる金額から逆算して作られるため,高額なものばかりでは無理が生じる。
 より良いものを求めるユーザーに応えるために技術が進化し,それが結果的に高コストを招くという構図は,ゲームに限らずどんな産業にも起こりうるものだが,石村氏はそこに危機感を覚えたようだ。

 「アーケードゲームの1プレイ100円や200円といった設定で店舗が元を取るのは,やはり大変なんですよ。なんとかローコストな筐体や基板でやりたいと思っていたときに,久夛良木さんたちとの接点ができたので,PlayStation用のCPUを採用し,メモリを増やしたものをアーケードで使えないか……という発想で生まれたんです。
 ナムコがPlayStation向けにソフトを提供することと引き換えに,PlayStationのハードをうちのアーケード基板に使わせてもらおうと」

 そうして生まれたSYSTEM11初のタイトルが,1994年12月にリリースされた「鉄拳」だった。

 「当時,『バーチャファイター』がすでに大ヒットしていたので,表通りに面した大きなゲームセンターは『バーチャファイター』におまかせして,裏通りの小さな店に『鉄拳』を入れてもらおうという作戦でした。
 『バーチャファイター』1台の定価は100万円くらいだった記憶がありますが,買おうとすると“オマケ”がついてきて,結局300万とか400万円必要になる……いわゆる抱き合わせ販売の話もよく聞きましたからね。『鉄拳』は営業もがんばっていたので,結構な数が導入されたと思います」

 そのバーチャファイターの宣伝担当として,当時セガで働いていた筆者は,PlayStationの発表会で,ナムコが開発した「リッジレーサー」のプレイムービーを見て驚愕した覚えがある。
 車がコースを進むにつれ,遠くにある山がリアルタイムで生成されていくといった表現が,コンシューマゲーム機でできるとは思っていなかったからだ。目の前で繰り広げられている光景に,時代の変化を感じずにはいられなかった。

 「『リッジレーサー』には,レーシングゲームではナンバー1でありたいというナムコのプライドがありましたね」

 そう語る石村氏は,セガサターンの開発中に,セガへ見学に来たことがあるという。

 「サガサターンの2Dグラフィックスのサンプルをいくつか見せてもらいました。アーケード向けには『バーチャファイター』『デイトナUSA』といったヒット作を出されていましたけど,その時点ではコンシューマゲーム機で3Dグラフィックスを表現するには至っていなかったようです。セガさんも苦労しているんだなあと思いました」

■アーケードやコンシューマにおける“淘汰”を感じて携帯電話コンテンツへ

 「私は30代くらいで取締役になりました。中村雅哉さんの御嬢さんと結婚して,当時は中村を名乗っていましたから。
 ですがその後,アーケードのハイスペック化の波がいったん過ぎ去って,コンシューマゲームも少し落ち着いた頃,取締役や部長を減らし,組織をフラット化しようという動きがあって,そのタイミングで取締役を降りたんです」

 石村氏は再びアーケード基板の開発に携わることになった。

 「1990年代の後半に,アーケード用3DCG基板の『SYSTEM33』(※公式に発表はされていない)と呼ばれるものを開発していました。でも,それがいつまでたっても完成しなくて,1998年にプロジェクトを断念したんです。開発中にPlayStation 2の情報も流れてきましたし,PCのスペックも上がっていましたから」

 ハードウェアの性能が急速に進化し,インターネットも普及したこの時期,石村氏はある種の“淘汰”が始まったと感じたという。

 「国内や海外からどんどん情報が入ってくるようになって,その情報の中で開発していると,惑わされちゃうんですよ。先を見据えて作ったはずが,出来上がったときには負けている……みたいなことがよくありました」

 そんな状況で石村氏が選んだ次の仕事は,アーケードでも,コンシューマゲームでもなかった。

 「1999年2月にドコモさんのiモードが始まったんです。面白そうだからちょっとやってみようということで,その年の10月1日に「ナムコi(アイ)ランド」というiモードサイトをオープンしました。コンテンツは,自身の予定命日を検索する『X-DAY』,大衆度を測る『アブノーマルチェック』などで,どれもシンプルなブラウザタイプのシステムでした」

 スマホゲーム全盛の今となっては信じられないが,当時は「携帯電話でゲームを遊ぶ」ということが一般的ではなかった。何しろiモードのサービスが開始した時点では,カラー液晶を搭載した端末もなかったので,「ゲーム機」としての表現力はまだまだだったのだ。

 「当時のナムコは会社としてはもちろん,個々のスタッフも,PlayStation用ソフトのヒット作を作ろうと意欲を燃やしていました。
 そんなところに携帯電話向けのコンテンツを作れと命令しても,うまく行かないことは分かります」

 プロジェクトの行方を左右する人員確保が困難になりそうだったわけだが,いざ始めてみると,あっさり解決したそうだ。

 「ナムコには“ドットの神様”みたいに崇められていたMr.ドットマンこと小野 浩さんがいたんです。初期のiモードコンテンツでは,ドットの技術が十分に活かすことができたんです。ほかにも高い力量をもったスタッフにサポートしてもらうことができました。
 ただ,一度に大量のユーザーからのアクセスを想定していなかったものですから,オープン時はサーバーの処理が追いつかなくなるという事態になりました」

 ナムコiランドは,月額料金制というビジネスモデルをナムコにもたらすことにもなった。

 「でも中村社長は,『モノも作らないし,外にも出ないし,ただ待っててお金がちゃりんちゃりん入って利益が出る……そんな商売はありえない』と言っていましたよ(笑)」

■“傍流”にいたはずが,社長に就任

 筆者が思うに,石村氏は「置かれた場所で咲きなさい」という生き方に忠実な人だ。
 人生には激流もあれば緩流もある。石村氏は置かれた場所を冷静にとらえ,そこで自身の夢と組織のありかたを融合させてきた。

 そんな石村氏は,iモードコンテンツを成功させた後の2004年に取締役へ復帰することになった。

 「PlayStationとかアーケードゲームといった,ナムコのメインストリームに関わるソフトを作っている現場にいればよかったのかもしれませんが,全くの新規事業である携帯電話向けコンテンツしか分からなくなっていましたから,本流に戻れと言われても……という,まったくの浦島太郎状態でした」

 その頃のナムコは,バンダイとの統合交渉を進めていた。

 「両社を統合するにあたって,ホールディングス(持株会社)を作るわけです。取締役の何人かはそちらに行かなければならない。また,ナムコやバンダイの組織をどうするのかという話もあります。
 ただ,そのあたりは,会長になっていた中村さんと高木九四郎社長が進めていて,私はそういった人事の話し合いに加わることもありませんでした」

 そんな状態の中で,石村氏はさらなる驚きの知らせを受ける。

 「中村会長から『2005年4月1日からお前が社長だから』って言われました。2004年2月28日のことでしたが,取締役の末席に復帰したばかりでしたし,心の準備もないなかで突然言い渡されたので,戸惑いました。いろいろなことが頭に浮かびましたが,知人からはチャンスだとか,いい意味に解釈しろと言われたのを覚えています」

 石村氏は戸惑いつつも社長に就任し,バンダイナムコゲームス(当時)が発足するまでの1年間,職務を全うした。合併によって会社が激変する時代には,石村氏のような柔軟な人物が必要だったのかもしれない。

■中村雅哉氏の人間味あふれる魅力

 筆者はかつてナムコに在籍していた人から,「中村氏は社員からの上申に対して,一度は却下する」というエピソードを聞いたことがある。

 「あぁ,それは本当です。中村さんは『お前本気なのか?』『どこまでやるんだ?』『責任取れるのか?』などとよく言ってました。そう言われてあきらめるような企画は,いらないということなんです。
 『評論家的な話はいらないんだ,熱意を見せろ』ということですね。一発目からこれ以上ない熱意を見せられれば却下はなかったかもしれませんけれど。却下されるといっても,そこにはとても自由な雰囲気がありました」

 トップダウンで何かを作るだけでは良いものは生まれない。中村氏はボトムアップの自由な発想を求めていたのだろう。
 ナムコは老舗映画会社の日活や,レストランチェーンのイタリアントマトといった,一見畑違いにも思える企業を傘下に置いていたことでも知られている。映画関係では,かつて筆者が所属していたギャガ・コミュニケーションズとの関係も深かった。
 そういったユニークな経営方針も,中村氏だからこそ生まれたものだろう。

 「情緒に訴えるサービスやエンターテイメントが好きな人でした。お金にはシビアでしたが,その一方では社内に向けて『エンターテイメントという立派な仕事,クリエイティブな仕事をしているんだ』『お金を稼ぐことより,良い仕事をすることに邁進しなさい』『モノを作ったり,新たに物を生み出したり,0を1にしたりする者が一番偉い』といったことを強く言っていました。当時のキャッチコピーにも『遊びをクリエイトする』というのがありましたね。
 ただ,時代が昭和から平成になり,上場して,企業の収益だとか存続性だとかいったことが重要視されるようになって,方向性が変わっていったような気がします。
 今は石村を名乗っていることからお察しいただけると思いますが,私は2000年に離婚しました。それでもナムコで働き,ナムコの最後の代表取締役社長を,短い期間ですが務めさせてもらいました」

 石村氏は,JAMMA(日本アミューズメントマシン協会)の展示会などで,自社ブースにいる中村氏の姿を思い出すという。

 「自信作があるときは『さぁどうだ,今年の作品はいいだろう!』という雰囲気でしたね。逆に目玉がないときは,事務局から出てこないなんてこともありました」

 今回“生き証人”である石村氏から聞けた証言は,ナムコや中村氏だけでなく,ゲーム業界の歴史を振り返るうえでも,貴重なものだと言えるだろう。

 「私はさまざまな歴史を見てきました。ナムコ誕生前の時代に,エレメカのほか,浅草花やしきのコースターなども手がけていたトーゴや,東京タワーのコンペで中村製作所に勝ち,数々の名作エレメカを世に送り出した関西精機製作所は,残念ながらなくなっています。
 ナムコにいた自分はとても幸せでした。アーケードからコンシューマ,携帯電話,そして今のスマホと,時代の変化ともに何かが消え,新たなものが生まれるという栄枯盛衰をつぶさに見ることができたと思います」

 最後に,2017年2月に行われた中村雅哉氏のお別れの会について聞いてみると……。

 「いやー,大変お恥ずかしいんですが,すっかり忘れてしまっていました。『今日は何か予定があったな』とは思っていたんですが,終わってから気づいて。ナムコ時代の友人たちに『馬鹿だなぁ』なんて言われました」

 そう屈託なく話す石村氏の笑顔は,素敵に輝いて見えた。

■取材後記

 筆者は残念ながら中村雅哉氏に直接会う機会には恵まれなかったのだが,妙なつながりがあった。

 ナムコが出資して,ギャガがアメリカで製作した「カブキマン」という映画がある。「悪魔の毒々モンスター」で知られるロイド・カウフマン監督の作品で,“アメリカ人が考える間違った日本的世界観”が繰り広げられるというものだ。

 その劇場映画配給時に,当時ギャガの宣伝担当だった私が「ナムコ製作映画お蔵入りの危機!!」という刺激的なキャッチコピーをつけて,スポーツ新聞の紙面を飾った。それが中村会長の逆鱗に触れ,謝罪文を書いたことがあるのだ。

 監督をはじめとする現場の人間ならまだしも,出資している会社の会長がそういったことに激怒するというのも珍しいように思う。中村氏のコンテンツへの愛情は並々ならぬものがあった,ということの証左と言えるだろう。

著者紹介:黒川文雄
 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設

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ビデオゲームの語り部たち 第4部:石村繁一氏が語るナムコの歴史と創業者・中村雅哉氏の魅力





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